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「あなた、起きて下さい、あなた」
……まあ何てこの人は死に顔そっくりの顔で眠るのかしら。
湖の底に降り立った時、私の体はそれこそ水に溶けてしまうくらい老いていた。
魚の群れがやってきた。肉の匂いを嗅ぎつけたのだろう。彼らは私達の体をついばみはじめた。
「何だ、どうしたんだ」
目を覚ますと無数の魚の群れが僕達の肉をつつき始めていた。何だかくすぐったくていい気持ちだった。僕達はこうして骨になるのだ。幸せだ。僕はずっとこうなりたかった。もう飛行機雲を見送ることも、鍵の掛かった扉を叩くこともない。体じゅう痛いようなあの思いに耐えることもない、ただ僕は緩やかに死んでゆく。薄い氷に覆われた、湖の底で。
こんな風にゆっくりと死を味わう人はいないのではないかしら。私は生きるということを十分に味わうことができなかったけれど、その代りこうして今、命を確かめている。不十分な生に較べて、なんて楽しい胸踊る感覚かしら。
結局、僕は彼女の顔を最後まで見ることができなかった。その前に彼女は骨だけになってしまったからだ。
「ねえ、僕は君に出逢えてとても幸せだった」
「出逢う?いいえ、違うわ。あなたと私はまだ出逢っていないのよ」
ふと見ると彼女の手に何かある。紙飛行機だ。あの透明な紙飛行機だ。「おかしいな、どうしてこんなに小さいんだろう、僕達この紙飛行機に乗ってやってきた筈なのに」彼女の白い骨が謎めいた微笑を浮かべている。
「君の飛ばした紙飛行機が、どうして……」
「いいえ、私はまだこれを飛ばしていないのよ」
さっきまで夜の色をしていた水が白み始めていた。この夢に終わりが来たことを僕は知った。
「私とあなたはまだ出逢っていないのよ」
そうだ、僕は君の顔を知らない。交わした挨拶といえばさよならだけ。
「さよなら」
「さよなら」
急がなければ。急いでこの夢から醒めなければ。君が完全な骨になってしまう前に。僕は君に出逢わなければ。
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