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次の日、僕はまた例の階段を上っていた。屋上のドアを開けるのが恐くてたまらなかった。彼女があのビルの上にいなかったらと思うと、不安で心臓が千切れてしまいそうだったからだ。
思い切ってドアを勢いよく開けると、向かいのビルに小さな白い影が動いた。あの子だ。
「おーい」こっちを向いた。僕は嬉しくて絶叫に近い声で叫んだ。
「待って、今飛ばすから」
僕はノートを破り、「こんにちわ」と書いた。そして紙飛行機、もちろんあの子よりもっと格好いい型の奴を折り、十分に助走をつけてそれを投げた。紙飛行機はきれいなカーブを描いて飛んでゆく。僕は息をのんでその行方を見守った。ダメだ、半分まで行った所で、飛行機は進路を変えてしまった。
何度も「こんにちは」を書いて飛ばしたけれど結果は同じだった。何故か分らないけどどの飛行機もあのビルに辿り着く前にふいっと曲がってしまう。
もう破るノートのページがない。結局一冊分使ってしまったのだ。がっくりしたその時、女の子の手から紙飛行機が放たれた。そして昨日と同じに校庭に落ちた。
その紙の裏にはひとこと、鉛筆書きで「ありがとう」と書いてあった。僕は彼女をひとことずつ知っていった。それに較べて僕のことは何一つ分ってもらえないことが悔しかった。僕の言ってることもあまりよく聞こえていないようだったし。
そういう毎日がしばらく続いた。あの子のところに届くようになるまで続けるつもりだった。お小遣いもそこを尽きてノートが買えなくなると、僕は教科書を破った。別に勉強が嫌いだからじゃないよ、でも好きでもない。
そんなある日、僕と母さんは学校に呼ばれた。紙飛行機のことがバレたのだ。墜落した紙飛行機の大半が、学校の隣りに住んでいる恐いオバサンの家の庭に落ちていたらしい。僕は先生と母さんにこっぴどく絞られた。何か不満があるのかとも訊かれたよ。不満?……別に不満なんてないさ。それより、僕は彼女が叱られていないかそっちの方が僕には心配だった。
翌日、階段をこっそり上ってゆくとドアには鍵が掛けられていた。そいつはいくら叩いても押してもビクともしなかった。やがて僕は疲れて座り込んだ。扉の脇にある小さな窓から、空が見えた。それはクリーム色に変りつつある夕暮れ直前の空だった。僕は腫れ上がった拳をさすりながらノロノロと階段を下りた。
外に出てみるともう辺りは薄暗かった。校庭の真中に差し掛かったとき僕はあのビルを見上げた。すると小さな人影があった。
彼女だ。
「おーい」
すると彼女の手から何かが放たれた。それは見えないものだった。でもそれは確かに夕焼けの空で見事に旋回し、僕の足元に落ちた。僕はその見えない何かを拾い上げた。その透明な紙で折った飛行機の裏に書いてある文字が僕にははっきりと見えた。「自由」それは透明な鉛筆で書いた透明な文字だった。
「自由!」僕は彼女に向かって叫んだ。その子は肯いたように見えた。伝わったのだ。僕の言ってることが。僕は有頂天になって何度も何度もどなった。
「自由、自由、自由」
そして僕はその透明な紙飛行機を彼女に向かって力一杯投げ返した。
透明な紙飛行機はすうっと僕の手から離れ飛んで行ったけれどすぐに旋回してこちらに戻ってきた。驚いたことにそれは大きくなっていた。僕が手を広げたよりももっと、もっと。僕はその見えない飛行機に飛び乗った。出発進行だ。この飛行機に操縦桿はない。だってこれは僕が考えさえすれば、思ったとおりのところに行ける乗物なのだから。
まっしぐらにあのビルの屋上めがけて僕は飛んだ。女の子は手すりのところで待っていた。そして僕の差し出した手を静かに握り返した。こんな風にして僕らは飛び立った。夕暮れの方角へ。太陽が時間を鉄のように溶かす世界の果てを目指して。過ぎ去った夏の方向へ。
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