海亀
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夜になってここを訪れた

どうしてか昼にしかここへ来たことは無かった

青く震える水の向うでその人は「いらっしゃいませ」と言った

僕は答えなかった

黙って雨上がりの路面を眺めていた

初めてここに来たときのことを思い出していたのだ

「海亀を飼っていたの。まだ小さいのを海岸で拾ったのよ」


水の中でその人の瞳がチカリと光った

「その人と行った海で?」

その男のことを知らないのに僕は言った

「半年でみるみる大きくなったわ。この水槽に入りきらなくなった」

「それで?どうしたの」

「放してきたわ。もとの海に」

彼女は両手を水槽に浸して目を閉じた


白い手が水死体のように水を吸い込んでゆく

体に水が沁みとおるのをその人は待っているようだった

「ねえ、海亀は海でちゃんと生きてゆけたのかしら。

かわいそうなことをしたわね」

「違うよ」

僕は水槽の中のその手を掴んだ


「かわいそうなのは海亀じゃなくてそのことをずっと

思い続けてるあなたのほうだ」

手を水から引き上げた時、ザプンという波の音がした

「まるで海に来たみたいだ」

その人は水槽の向うから出てきた

そして僕の向かいに腰を下ろして言った

「ご注文は?」

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