IV
   
   み    ひ      
作      ナ  カ  ヤ  マ  カ  ズ  コ 

   家に帰ってルーペで観察してみると、そいつはオカッパ頭をしていた。私の毛穴ほどしかない口から吐息がもれるたびに前髪がふわりと動く。胸元にはこれ以上ないくらい小さな微かな膨らみがあった。

   その小さな温もりに私は「あつこ」と名付けた。呼び名が必要だったからだが……何故そんな馬鹿なことをしたか、自分でも分からない。それは今しがた別れたばかりの女の名だった。

   未練ではない。本当に、思いつかなかったのだ。会社の同僚でも従妹でも誰の名前でも良かったのに、頭の中で「あつこ」という文字が、音が、くるくると回転しながらみるみる大きくなって、しまいには墓石のように居座ってしまった。

   それから、私と小さなあつこの生活が始まった。

   何処へ行くにもあつこは一緒だ。会社や街ではもし落としてしまったら、はぐれて二度ともう会えないか、踏まれて死んでしまう危険性が高い。だから私はあつこを通常、耳の中に入れていた。それにその方が喋る時も合理的だ。彼女の声は小さいのだ。左耳の鼓膜に直に話し掛けてもらったほうがどんなに聞こえやすいかしれなかった。

   私は私で耳の中の彼女と話す方法を徐々に体得していった。唇を動かさず腹話術のように、但しほとんど音声を発しないで口の中だけで喋るようにするのだ。

   あつこは本物のあつこと似ているところもあれば似ていないところもある。外見も性格も。両者の共通項については偶然なのか、あるいは大きさはかなり違うものの女という種族だという事実に負う部分が大きいのか、考えてみたが男の私には分からない。

「ねえ、さっきからどうしたの?」

   勤め帰りの山の手線の中で、あつこがざらついた声をあげる。こちらが黙っていると不安がるところは本物とそっくり同じだ。

「別に」

「何を見てるの」

   あつこが左耳から顔を出す。私は慌てて耳朶を掻く振りをして、彼女を人目から隠した。

「相向かいの女さ」

   丸の内あたりに勤めるOLなのだろう。高価そうなスーツに膝をキチンと揃えて座る姿には疎ましいほどのプライドが感じられる。

「ああいう人が好みなの」

   耳朶にチクリと刺激があった。きっとつねるか噛むかしたのだろう。

   僻みっぽいところも似ているのだが、私は不思議と本物より嫌でなかった。

   何もかも、そう感情の揺れさえも彼女のそれは小さいからだ。

「違うよ、あの人の眼鏡だよ。ほら」

「眩しい」

「そう夕焼けが映ってるんだ」

「小さな太陽」

「あつこにはお似合いさ。本物の太陽は大き過ぎるだろ?」

   あつこは黙ってしまった。私と彼女はOLが降りるまで、レンズの中の小さな夕闇を見つめ続けていた。

 

みみのひと       ■ つづく ■         ※この小説はほぼ一週間ごとに掲載となります。

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