III
   
   み    ひ      
作      ナ  カ  ヤ  マ  カ  ズ  コ 

   女が最後に私の部屋を訪れ、そして飛び出して行ってから一週間が経とうとしていた。

   私は暗がりで待ち伏せしている。女のアパートの階段の下の、明かりの当らないところに立ちんぼして。あと五分以内に帰る筈だ。同じ職場なのでお互いの生活が手に取るように分かる。今日は定時五分過ぎにタイムカードを押したから、おそらく電車の乗り継ぎと途中で立ち寄るスーパーでの買い物の時間を計算に入れても、もうそろそろ、である。

   目的は一つだった。「あれ」を返してもらうのだ。もちろん悟られてはならない。気付かれないよう、そっとあれを彼女の耳から取り出さなければならない。もはや喪失感などという甘ったるい感傷ではなく、「あれ」が何、いや何者なのか、確かめずにはおれない衝動に私は突き動かされていた。

   三十分が経過した。その間に猫が一匹私の足元をすり抜け、三階に住んでいるとおぼしき中国人が帰宅し、パンクな髪形の少し太めな男が郵便受けにピザの広告を入れに来た。どいつも例外なく胡散臭げな顔で私を一瞥するのが面白い。

  おかしい、帰ってこない。どうしたというのだ。スーパーにはもう何の食材も残っていなくて、角のコンビニにも寄っているのだろうか。やはり、オフィスを出るところから後を尾けるべきだった。何かあったのか?あるいは五反田にあるという実家に顔を出し夕飯でも食べているのかもしれない。そうだったらどれだけ待てばいいのだろう。

   どこかの部屋で目覚まし時計が鳴った。退屈なので、女の郵便受けを調べることにする。さっきのピザのチラシと携帯電話の請求書、それに通販のカタログ。

   ふいに聞き覚えのある足音が近付いてきた。そして聞き覚えのない足音も。女のはしゃいだ声とスーパーのビニール袋のカシャカシャ鳴る音が私の耳を不快にまさぐった。

   郵便物を戻そうとしたが時すでに遅し。女と見知らぬ男が私の前に立っていた。

   女は悲鳴に近い声で言った。

「誰?」

「俺だよ」

「……」

   見知らぬ男が私を検分するように目を細めているのが分かった。突然の暗がりに慣れぬ眼で不審者を捉えようと懸命なのだ。

   私は手にした郵便物をどうしようもなくて彼女に差し出した。

「郵便が来てたよ」

   女は無言で私の手からそれをもぎ取った。

「あの、この前話したでしょう?同じ職場の人」

   女は男にすがるようにこう言った後で、彼とそっくり同じやり方で目を細めて私を睨んだ。

「今日は何か」

   私はのろのろと応えた。

「いや別に」

   誰がどう見たって私はストーカーでしかなかった。少なくともこの二人はそうだと思い込んだに違いなかった。女にそう勘違いされるのは耐えがたい、だがどうしたら分かってもらえるのだ、私が追いまわしているのは、お前じゃない!

「行こうか」

   男はなかなかにシブイ声を出し、彼女もまた負けないくらいの可愛らしい頷きを返して、二人は私を通り過ぎた。男の背中は女の二倍くらいあった。しかしまだ肩幅を目で測りきらないうちに彼らは部屋のドアの向こうに消えてしまった。

   私は踵をかえした。そして阿呆のように半開きになった口を閉じ、乾いた眼をまばたきして潤した。しかし歩きはじめることができずにいた。直接、刺し貫かれるようなこの感じ、これは何だろう。眉間に力を入れていないと、身体が裂けてしまいそうだ。喉の奥がひどく疼く。息を吸ったり吐いたりするたび、なぜこんなに内臓が揺れるのか。しかし私は楽しかった。そうだ、世界は痛みに満ちている。言葉と文字の関係を初めて理解した子供のように私の心は新鮮な喜びで一杯だった。

   苦痛にうっとりと身を浸そうとしたその時、女の郵便受けから飛び降りたものがあった。あいつだ。

   私の、その失われた大きな耳垢の声は誰かに似ていた。

「さあ、帰りましょう」

   そう言ってそいつは私の手のひらに飛び乗った。一週間前に女の耳に入った時より少し大きくなったようだった。よく見るとそれは人間と同じ体型をしていた。つまり、小さな頭と小さな胴体、それに手足がついているのだ。

   小さな小さな温もりが首を傾げて私を見上げている。

「疲れたぁ」

   不思議な懐かしい声の持ち主はわずかコンマ一ミリ分の欠伸をすると、人差し指の腹の上で眠ってしまった。

みみのひと       ■ つづく ■         ※この小説はほぼ一週間ごとに掲載となります。

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