連 | 載 | 小 | 説 |
II
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■ み み の ひ と ■ | |
作 ナ カ ヤ マ カ ズ コ | |
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左耳から出ていった(そうだ、それには意志があったのだから)大きな耳垢のことばかり想い続けた。体の重要な部分を失ったような感覚。あるべきはずのものがそこにない、喪失感が私を苛んだ。その存在すら知らなかったくせに。いや、あるいは予感していたのかもしれない。こんなに欠かさず毎日耳を掘っていたのも私自身意識の届かぬような深い部分で何かを感じていたせいなのかもしれない。 私にはそいつが何であるか確かめるチャンスすら与えられなかったのだ。何を失ったのか分からぬまま、日々が過ぎた。 「このシャツ、どうしよう」 今夜は女が来ている。荷物をまとめるためだ。女が手にしている、白地にグリーンのストライプのシャツは私のものだ。彼女はこれが気に入ってしまって、ここに泊まるときは必ず寝巻きがわりに着ていたものだ。 「好きにすればいい」 私はそういうことにこだわらない性質だ。何故、恋人と別れるたびに貰った物や置き去りにされた荷物やなんかをいちいち捨てたり送りかえしたり、燃やしたりしなければならないのか。私は捨てない。何もかも残して置く。未練がある訳ではない。面倒なだけだ。 部屋には過ぎ去った女達の忘れ物がポツリポツリと置きっぱなしになっていて、どれがどの女にまつわるものか、もう分からなくなってしまっている。流しの上には化粧品、歯ブラシ、クローゼットにはバッグ、衣類、……風呂場には脱毛器やパーマヘア用のシャンプーやトリートメント……。 女は冷蔵庫の残り物を使い切ると言ってきかない。「不思議ね、初めてここに来たときも同じだったわね」 焼きうどんを食べながら女は言った。 「あの時も焼きうどんだったっけ」 思い出した。女が初めてここへ来た時(夜遅く酔って押しかけてきた女の強引さに私は好感を持った)、焼きうどんを作ってやったのだ。不思議だ。今度は彼女が作ったのに味まで似ていた。さっぱりした醤油味に生姜がほのかに香り、いやというほど、大量の鰹節がまぶしてある。 「そうかな?」 「忘れちゃったわね、あなたは」 「…………」 「いいのよ、昔の話だもの。でもね、私にはほんとに大切な思い出なの」 私は驚いた。いや、女の涙にではない。その時、あの、私の大きな耳垢らしきものが、彼女の耳朶に飛びついたからだ。そいつには細い手足がついていた。本体は肌色で豆粒のように見える。今までどこにいたのだろうか。 「どうしたの?ごめん泣いたりして」 「いや」 「怒ってるの?」 「そうじゃなくて」 女は激しく嗚咽しはじめた。 「じゃどうしてそんな目で見るの?」 そいつは女の耳朶をよじ登りどんどん耳の穴に接近している。まずい、このままでは…… 「落着いて、じっとするんだ」 「なんなのよ」 「いいから、下を向いて」 うつむいた女に気付かれぬようそっと手を伸ばす。あともう少しだ。 「実はね……驚いちゃいけない」 「今更何よ。……好きな人……できたんでしょう」 その間にも豆粒は小さな手足を巧みに使って耳の穴をこじあけ、入ってゆく。 「あっ」 そのたこ糸ほどの太さの足をつまみ損ね、私は慌てて声を漏らした。 「図星なのね」 女はハンカチを目に押しあて肩を震わせている。 「違うんだ、頼むからじっとしててくれないか」 全神経を集中せねば。だが焦りが先に立ち、指先は震えがちだ。 「説明してよ、お願いだから、どうしてなの。どこの、誰なのよ」 もうダメだ。最後に足をバタつかせたかと思うとそいつは完全に姿を消してしまった。 「教えてよ。私ちっとも驚かないし、もう泣かないから」 女は興奮しきっている。 豆粒のことを言おうか言うまいか……。思い切って私は訊ねた。 「痛くない?」 「え?」 「耳」 私は女の右耳を指し示した。 「バカにしてるの、耳が痛いって」 「そうじゃなくてさ、文字通りの意味で訊いてるんだ」 「じゃあ、答えるけど、痛いわよ耳だけじゃなくて全部ね、痛くてたまらないわ」 女は荷物も持たずすごい勢いで出て行ってしまった。 その後、二人分の冷めた焼きうどんを私はのろのろと平らげた。耳掻きはあの大きな耳垢を掘り当て失なった夜からずっと、テーブルの上のペン立てに刺さったままだ。あの夜以来、私は耳掘りをやめていた。 |
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みみのひと ■ つづく ■ ※この小説はほぼ一週間ごとに掲載となります。 | |
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