I
   
   み    ひ      
作      ナ  カ  ヤ  マ  カ  ズ  コ 
1

   最初、それは耳から出てきた。私には体にあるあなというあなを掃除したがる傾向がある。中でも「耳掘り」が一番好きだ。

   一週間前 ―― 大変疲れることのあった日の深夜 ――100円ショップで買った先端の鋭い耳掻きで私は暗い愉悦を楽しんでいた。ティッシュを広げ、掻き取った耳垢を戦利品として並べてゆくのが習慣だ。毎晩行なっているので並べるものがほとんどないが、それでも、時折とんでもない大きさのものが出てきて私を満足させた。

   私はその日、三年ほど付き合った女に別れ話を切り出したばかりだった。女は最初ポカンとしていた。それはそうだろう。彼女にしてみればうまくやっているという確信があっただろうに。私だって、つい昨日まではそう思っていた。

   当然わけを訊かれた。

「面倒くさいから」と私は答える。

   これは真実だ。物心ついた時から息をするのも面倒なたちなのだ。いろんなものをやめてきた。捨ててきた。これがその全ての理由なのだ。

「どうして?私はどうすればいいの?」

   答えようがない。その瞬間はいつも突然やってくる。予感ははじまりからあるのだがタイミングは分からない。締まりの悪い蛇口から、ぴちょん、ぴちょんと音を立てて何かが滴り落ちる。それは時間とともに下に置いてある入れ物に溜まってゆく。鍋なのか、湯呑茶碗なのか、入れ物が何であるか私には知ることが出来ない。私の場所からは見えないからだ。ただその都度違うということだけが分かっている。

「私が結婚したがってると思っているのね」

(ううん)

「確かに旅行に行きたいって言ったけどそれがそんなにいけないことかしら」

(ううん、ちっとも)

   押し黙ったままの私に女は押したり引いたりしはじめた。

「縛りたくないのよ」

(しばる?)

「お互いあまり頻繁に家には行かないことにしましょう」

(いや、別れるよ)

「距離を保ってつき合うようにするから」

(いや、別れようよ)

「私の仕事が気に入らないの」

(別に。やってることは悪質だとは思うけど)

「好きな人が出来たのね」

(いいえ)

「いつから?」

   いつのまにか耳掻きをいじりはじめていた。気持ちの良さそうなフワフワの梵天を見つめていると女を一刻も早く帰したいという気持ちが強くなってくるのが分かった。

「どんな人?ねえ会社の人?」

(会社には男しかいない)

「分かった。私が鈍感だったね。ごめん」

(いやいやそうじゃなくて)

「じゃあ、うん。元気でね。ここに置いてある私のものは全部捨てちゃって。……ねえどうして何も言ってくれないの?何で黙ってるのよ。ねえ」

「…………」

「もう口を開くのも面倒くさいの」

   私はやっと喋ろうという気になった。

「うん、そうなんだ」

   女は出ていった。

   ありがたい。私はおもむろにティッシュを広げ、勢いよく耳を掘りはじめた。ずっと我慢していたのだ。一途に私の左手は動いている。

   少し、大きめの手ごたえがあった。その瞬間、左耳からほろりと何かが落ちた。

「何だろう?」

   やっと手に入れた戦利品が行方知れずになるほど気分の悪いものはない。床を這いつくばって探そうとしたその時

「まだ見つからないの?」

   声の主は鼻の頭にいた。近過ぎて焦点が合わない。虫か?いや、触角はないようだ。

「さよなら」

   そいつは鼻からふわりと飛び降りた。

「待ってくれ」

   それは振りかえってクスリと笑ったように見えた。錯覚だろう。見分けられるはずがない。顔がついていたかどうかも定かではないのだ。

   とにかくそいつは行ってしまった。

   後には、大きな耳垢を失った、抜け殻の男が残された。

みみのひと  ■ つづく ■  ※この小説はほぼ一週間ごとに掲載となります。

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